PA6 山雲楼台図
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富岡鉄斎
紙本墨彩 牙軸 生ぶ二段丸表装 共箱二重箱
画:1319mm×329mm 表装2014mm×407mm (軸先含まず)
¥520,000
Tessai Tomioka
1836〜1924
富岡鉄斎は最後の文人画家と謳われた、我が国では最も著名な画家の一人です。京都の法衣商である十一屋、富岡維叙の次男として天保七年(1836)に生まれました。耳が少し不自由でしたが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学びました。尼僧で画家や歌人として有名な大田垣蓮月が、安政二年(1855年)18歳頃であった鉄斎を侍童として育て人格形成に大きな影響を与えました。 南北合派の窪田雪鷹や大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊に、大和絵を浮田一蕙に学びました。文久元年(1861)には長崎に遊学し、長崎南画派の祖門鉄翁、木下逸雲・小曽根乾堂らの指導を受けました。翌二年、山中静逸との出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めました。この頃、私塾を開設。藤本鉄石・板倉槐堂・江馬天江・松本奎堂・平野国臣らと交遊しました。明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としましたが、しばらくのち百錬に改名。字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。鉄斎は、儒者が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていました。また、「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず讃を読んでほしい」と言っていたそうです。画題は東洋的な知識を元に、主に中国古典や日本の故事を題材にしています。画風は、文人画を基本にして、独自の世界を持っていて極めて独創的です。創作活動は、80歳を過ぎてますます旺盛で、さらに色彩感覚の溢れる傑作を描き続けました。作品は、日本のみならず世界からも今もなお高い評価を受けています。
この絵は、霧に包まれて深々とした森、楼閣や人物と従者が墨一色で描かれています。せせらぎの音だけが聞こえてくる時間の流れと空気感を鉄斎独自の画法で見事に描いています。大正三年は、没する10年前で77才の作品です。